研究ハイライト

炭素でできたメビウスの輪を合成 ~カーボンナノベルトにひねりが加わり裏表のない分子に~

 国立大学法人東海国立大学機構 名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(WPI-ITbM※1)の伊丹 健一郎 教授は、自然科学研究機構分子科学研究所の瀬川 泰知 准教授らとの共同研究により、炭素のメビウスの輪「メビウスカーボンナノベルト」の世界初の合成に成功しました。

 ナノメートルサイズの繰り返し構造をもつ炭素物質「ナノカーボン」を、原子レベルで精密に合成する方法が材料科学において求められています。その重要な一歩として、有機合成化学の手法を用いて、ナノカーボンの部分構造となる分子を合成する「分子ナノカーボン科学」が近年盛んに研究されています。しかし、これまでに合成された分子ナノカーボンは、リング状やベルト状といった幾何学的に単純な構造でした。理論化学的に予測されている複雑な幾何学構造をもつ未踏のナノカーボンを合成するには、より複雑で幾何学的な特徴をもった分子ナノカーボンを合成する新しい手法の開発が必要です。

 本研究は、メビウスの輪の形状をもつ分子ナノカーボン「メビウスカーボンナノベルト」を合成することに成功しました。ベルト状の分子ナノカーボン「カーボンナノベルト」に、更にひねりが加わった構造に由来する大きなひずみを定量的に解析し、合理的な戦略に基づいて有機合成化学的に合成を行いました。合成したメビウスカーボンナノベルトを分析することにより、メビウスの輪がもつトポロジー注1)に由来する特異な動的挙動や光学特性をもつことが明らかになりました。

 本研究は、複雑な幾何学構造をもつ新たなナノカーボン材料の開発に道をひらく画期的な成果です。

 本研究成果は、2022520日午前0時(日本時間)付にイギリス科学誌「Nature Synthesis」のオンライン速報版に掲載されました。


【ポイント】

・「カーボンナノベルト」に、更にひねりが加わった最難関分子を合成。

・スーパーコンピュータを用いて「ひずみ」を解析し合成可能な分子サイズを特定。

・表と裏の区別がないことや、右ひねりと左ひねりの鏡像関係が生まれるなど、メビウスの輪がもつ幾何学的特徴を実験的に実証。


【研究背景】

 グラフェンやカーボンナノチューブなどのナノメートルサイズの周期性をもつ炭素物質は「ナノカーボン」と呼ばれ、軽量で高機能な次世代材料として期待されている物質です。形によって電子的・機械的性質に大きな違いがあるため、望みの性質をもつナノカーボン構造のみを狙って精密に合成する方法が求められています。その中で、有機合成によってナノカーボンの部分構造をもつ分子を精密に合成する「分子ナノカーボン科学」が近年注目され、世界中で研究されています。

 これまでに、フラーレン、グラフェン、カーボンナノチューブの部分構造となる分子(分子ナノカーボン)が多く合成されてきました(図1)。しかし、これらはトポロジーの観点から分類すると比較的単純な構造です。一方で、複雑なトポロジーをもつナノカーボンは理論化学的に多数予測されており、これらナノカーボンが示す未知の物性に興味がたれています。このようなナノカーボンの精密合成の第一歩として、本研究グループは複雑なトポロジーをもつ分子ナノカーボンである「トポロジカル分子ナノカーボン」を提唱し、結び目や絡み目といった複雑なトポロジーをもつ分子ナノカーボンを合成してきました。


fig1_itami.jpg

図1:代表的なナノカーボン構造と、対応する分子ナノカーボン(分子科学研究所 瀬川泰知氏 提供)


研究の内容

 今回、メビウスの輪の形状をもつ分子ナノカーボン「メビウスカーボンナノベルト」を合成することに成功しました(図2)。メビウスの輪は、帯を半分ひねって環状につないだ形で、裏と表の区別のない特異なトポロジー構造として知られています。この構造をもつ分子ナノカーボンは古くから興味をもたれていましたが、環状構造とひねりの両方からなる大きなひずみを克服する合成法がなかったために、これまで報告はありませんでした。2017年に本研究グループらは「カーボンナノベルト」と呼ばれるベルト状の分子ナノカーボンの合成に成功しており、この手法をさらに発展させることでメビウス構造を構築できる可能性が生まれました。


fig2_itami.jpg

図2:カーボンナノベルトおよびメビウスカーボンナノベルトの構造と、対応する幾何学構造(分子科学研究所 瀬川泰知氏 提供)


 合成に先立ち、自然科学研究機構計算科学研究センターのスーパーコンピュータを用いた量子化学計算によって、メビウスカーボンナノベルトにかかるひずみエネルギーの定量的解析を行いました。環状の分子ナノカーボンは、小さいほど合成の段階数が少ないものの、反応の難易度が上がることが知られています。カーボンナノベルトは、ベンゼン212個のものが最小の分子として合成できていますが、メビウスカーボンナノベルトは、ひねりによってひずみがさらに大きくなるため、ベンゼン環38個以上が必要であると推定されました。

 計算結果をもとに、メビウスカーボンナノベルトの合成を行いました。市販の有機分子フェナントレンを左右非対称に修飾する手法を新たに開発し、逐次的に炭素鎖を伸ばしていく合成手法が可能になりました。既報の分子から合計14段階の有機合成を経て、ベンゼン環50個からなるメビウスカーボンナノベルトの合成に成功しました(図3)。類似の手法で、ベンゼン環30個からなるメビウスカーボンナノベルトの合成も試みたところ、目的物質が得られなかったことから、計算科学による推定がある程度妥当であったことが示唆されます。


fig3_itami.jpg

図3:メビウスカーボンナノベルトの合成と構造(分子科学研究所 瀬川泰知氏 提供)


 合成したメビウスカーボンナノベルトから、メビウスの輪の形状に由来する特異な性質が観測されました。NMR測定3)から、メビウスカーボンナノベルトに存在するひねり部分は分子全体をすばやく移動しており、全体として平均化された磁気的性質が観測されました。北海道大学創成研究機構化学反応創成研究拠点(WPI-ICReDD2)の土方 特任准教授・ピリッロ 特任助教が行った分子動力学シミュレーションにおいてもこの性質が再現され、ベルト状にも関わらず裏表の区別のない分子であることが確認されました(図4)。また、メビウスの輪はキラリティ4)をもつことが知られており、メビウスカーボンナノベルトについても、右ひねりと左ひねりを実際に分割しそれぞれの紫外可視吸収の円二色性5)を確認しました。


fig4_itami.jpg

図4:分子動力学シミュレーションによるメビウスカーボンナノベルトの動き。
ひねりが分子内を移動することで外側の面が内側に入れ替わり、裏表の区別がない(分子科学研究所 瀬川泰知氏 提供)


今後の展開

 本研究成果は、複雑なトポロジーをった分子ナノカーボンの合成手法として革新的です。今後、さまざまな複雑でひずみをったナノカーボン構造の精密構築に応用され、有機合成化学ならびに材料科学の発展に寄与することが期待されます。


【付記】

本成果は、以下の事業・共同利用研究施設による支援を受けて行われました。


戦略的創造研究推進事業 総括実施型研究(ERATO)

研究プロジェクト:「伊丹分子ナノカーボンプロジェクト」

研究総括:伊丹 健一郎(名古屋大学 大学院理学研究科/トランスフォーマティブ生命分子研究所 拠点長/教授)

研究期間:2013年10月~2019年3月


日本学術振興会 科学研究費補助金 特別推進研究(JP19H05463)

研究プロジェクト:「未踏分子ナノカーボンの創製」

研究代表者:伊丹 健一郎

研究期間:2019年4月~2022年3月


日本学術振興会 科学研究費補助金 基盤研究B(JP19H02701)

研究プロジェクト:「トポロジカルπ共役化学の開拓」

研究代表者:瀬川 泰知

研究期間:2019年4月~2022年3月


日本学術振興会 科学研究費補助金 挑戦的研究(萌芽)(JP19K22183)

研究プロジェクト:「新たな機械的結合の提唱と展開」

研究代表者:瀬川 泰知

研究期間:2019年4月~2021年3月


文部科学省 科学研究費補助金 新学術領域研究「π造形科学」公募研究(JP17H05149)

研究プロジェクト:「汎用的な新規π拡張反応を鍵とする湾曲π造形」

研究代表者:瀬川 泰知

研究期間:2017年4月~2019年3月


文部科学省 科学研究費補助金 新学術領域研究「配位アシンメトリー」公募研究(JP19H04570)

研究プロジェクト:「多孔性配位高分子の細孔次元性に注目した細孔内静電場と分子吸着能の相関解明」

研究代表者:土方 優

研究期間:2019年4月~2021年3月


豊秋奨学会

研究代表者:瀬川 泰知


大幸財団自然科学系学術研究助成

研究代表者:瀬川 泰知


旭硝子財団研究助成

研究代表者:瀬川 泰知


自然科学研究機構 岡崎共通研究施設 計算科学研究センター(21−IMS−C177)

研究代表者:瀬川 泰知


【用語説明】

注1)トポロジー(位相幾何学):

リング(穴)、結び目、絡み目など、連続的に変形しても変わらない要素の種類や数に注目して形を分類する幾何学。


注2)ベンゼン:

炭素6原子、水素6原子からなる有機分子をベンゼンと呼び、その正六角形の炭素骨格をベンゼン環と呼ぶ。平面構造が最も安定であり、湾曲するとひずみエネルギーをもつ。

exfig_itami.jpg

注3)NMR測定:

核磁気共鳴(Nuclear Magnetic Resonance)測定。分子の中の対象の原子(今回は水素)の原子核の状態や近傍からの磁気的影響を測定する方法。


注4)キラリティ:

左手と右手のように、そのままでは一致しないが鏡に映すと一致する性質。


注5)円二色性:

右回りの光(右円偏光)と左回りの光(左円偏光)の吸収強度に差が生じる現象。キラリティをもつ分子に見られる。


【論文情報】
雑誌名:Nature Synthesis

論文タイトル:"Synthesis of a Möbius carbon nanobelt"(メビウスカーボンナノベルトの合成)

著者:瀬川 泰知*、渡辺 二規、山野上 琴乃、桑山 元伸、渡邊 幸佑、ピリッロ ジェニー、土方 優、伊丹 健一郎*(*は責任著者)

DOI: 10.1038/s44160-022-00075-8