研究ハイライト

人工知能と量子アルゴリムの融合による 量子化学計算法の開発に成功 ~高精度波動関数計算の高速化へ新たな道~

【ポイント】

・人工知能の学習モデルを用いて分子の電子波動関数注1)を求める計算法を開発。

・人工知能が学習する大規模電子配置データ注2)を量子もつれ注3)として量子コンピュータ上に生成するための量子アルゴリズムの開発に成功。

・化学反応などに対する量子化学シミュレーションの実証に成功。


【研究概要】

 国立大学法人東海国立大学機構 名古屋大学大学院理学研究科の羽飼 雅也 博士前期課程学生、名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(WPI-ITbM)の柳井 毅 教授は、国立情報学研究所 情報学プリンシプル研究系の杉山 麿人 准教授、東京大学 大学院新領域創成科学研究科の津田 宏治 教授との共同研究で、人工知能が学習する大規模データを量子もつれとして量子コンピュータ上に生成するための新規アルゴリズムを発見し、それに基づく量子化学計算注4)法の開発に成功しました。

 近年、人工知能の学習モデルを、量子化学計算における電子波動関数の高速・高精度シミュレーションに応用する試み(ニューラルネットワーク量子状態理論注5))が研究されています。しかしながら、これまでの計算法では、大規模な電子配置データに対する確率論的なサンプリングが必要であり、それには組合せ爆発に起因する膨大な計算量が伴っていました。

 本研究では、量子コンピュータの超並列的な演算処理(量子ゲート操作注6))を取り入れ、学習計算を桁違いに高速化する計算法を発見しました。本手法は量子ゲート回路として組み立てることが可能です。生成された量子もつれを用いて人工ニューラルネットワーク注7)を訓練し、化学反応などの量子化学計算に応用できることを実証しました。量子コンピュータの開発が進展する中、今後の研究により、本手法が生命分子や材料の量子現象を高速シミュレーションする基礎技術になることが期待されます。

 本研究成果は、2023年3月30日付イギリス王立化学会誌「Digital Discovery」のオンライン速報版に掲載されました。


【研究背景】

 近年、深層学習など、人工知能による情報処理技術が急速に発展しており、大規模・高次元データの情報圧縮・特徴抽出を可能にしています。物質科学・化学の分野では物質探索や構造予測などでその威力を発揮しています。

 また、人工知能の学習技術を、量子化学計算と呼ばれる物質シミュレーションに応用する試みに注目が集まっています。その一つとして、人工ニューラルネットワークと呼ばれる機械学習モデルを用いて、量子化学計算で求められる電子波動関数を高速・高精度にシミュレーションする研究が進められています(図1:ニューラルネットワーク量子状態理論)。これまでの手法では、大規模な電子配置データに対する確率論的なサンプリングが必要であり、それには組合せ爆発に起因する膨大な計算量が伴ってきました。

人工知能に加え、量子コンピュータはここ最近注目を集める未来の計算機です。その可能性が大いに注目されていますが、その理論性能を最大限に利用可能な特別なアルゴリズム(量子アルゴリズム)の開発も喫緊の課題です。量子コンピューティングは、組合せ爆発の高速処理を可能にするアプローチとして期待され、その研究は活発に進められています。


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図1:人工ニューラルネットワークと呼ばれる機械学習のアルゴリズムを応用し、物質の電子の波動関数の量子化学シミュレーションを実施する。


【研究内容】

 本研究チームは、2020年に、「高次ボルツマンマシン注8)」と呼ばれる人工ニューラルネットワークモデルに着目し、それを量子化学の多電子波動関数の表現に用いる計算法を開発しました。この手法では、量子化学の分子軌道注9)の電子占有状態の情報を 1 (占有) と 0 (非占有) のビットで表します。そして、軌道占有に基づく電子配置の情報をビットの列(0...00 〜 1...11)で表します。本手法の特徴は、ニューラルネットワークを用いて、ビット列の出現係数を機械学習する点にあります。その学習情報が物質の電子波動関数になるように最適化が実施されます。我々の先行研究では、学習過程の確率論的サンプリング計算において、組合せ爆発に起因する膨大な計算量が生じていました。

 そこで、本研究では、量子コンピュータの超並列的な演算処理(量子ゲート操作)を取り入れ、ニューラルネットワークの学習計算を超高速化する量子アルゴリズムの開発に成功しました。これにより、上述の確率論的サンプリングを避けることができます。本手法では、占有状態のビットの表現に量子ビットが用いられます。ビット列の出現係数は、量子コンピュータ上での量子もつれとして生成されます。その生成には、量子ゲート回路を用います。図2に、本研究で開発した回路を示します。この回路を通じて、組合せ爆発に起因する膨大な情報を効率よく処理することができます。また、本手法の特徴は、ニューラルネットで学習されたビット列の出現係数の情報を正確に量子もつれとして生成できる点です。この成功裏の一つは、2020年に本研究チームが導入した高次ボルツマンマシンの数理的構造によるものと分かりました。

 本研究で提唱したアルゴリズムを量子コンピュータシミュレータへ実装し、本手法の妥当性を評価しました。化学反応などの量子化学計算に適用したところ、多様な分子を対象に一貫して高い精度で人工ニューラルネットワークが訓練されることが示されました(図3)。例えば、光によって生成される色素分子の活性状態の化学反応シミュレーションの実行に成功しました。また、訓練されたニューラルネットワークのパラメータが量子情報学に基づく電子の相互作用解析と一部相似性を持つという興味深い結果を得ることができました。


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図2:ニューラルネットワーク(高次ボルツマンマシン)の訓練に基づき学習される高次元電子配置。データを量子もつれとして生成する量子アルゴリズムおよびその量子ゲート回路の概略図。



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図3:量子計算のシミュレーションによる本研究で提唱したアルゴリズムを化学反応分子に応用した。人工知能によって理解された分子の波動関数と量子情報学に基づく相互作用解析。



【今後の展開】

 本研究では、人工知能モデルと量子ゲート操作の融合により量子化学計算法の基礎理論が開発されましたが、今後の量子コンピュータの技術的進歩により、生命分子や材料の量子現象を高速シミュレーションする技術に発展することが期待されます。物質シミュレーション・量子化学計算は近年不可欠な物質探索ツールとなっていますが、触媒性能の予測や機能性物質の理論設計においては、計算の信頼性とコストが鍵となります。本計算法が、量子化学計算の高速・高精度化を担う実用的な計算法へと展開されることが期待されます。

 また、量子ゲート演算を用いて人工ニューラルネットワークを学習する本アルゴリズムは、量子人工知能・量子機械学習という分野と密接に関連するものであり、他分野で組合せ爆発が伴う情報科学の問題へ応用されることも期待されます。


【付記】

 本成果は、以下の事業・共同利用研究施設による支援を受けて行われました。


科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業 さきがけ(17937609)

研究プロジェクト:「人工ニューラルネットワーク理論に基づく第一原理量子多体シミュレータの開発」

研究代表者:柳井 毅

研究期間:2017年10月~2020年3月


日本学術振興会 科学研究費補助金 基盤B(21H01881)

研究プロジェクト:「多参照電子論に基づく状態遷移速度計算法:無輻射失活及びプロトン共役電子移動の解析」

研究総括:柳井 毅

研究期間:2021年4月~2024年3月


科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業 CREST(JPMJCR22D3)

研究プロジェクト:「記号推論に接続する機械学習」

研究代表者:杉山 麿人

研究期間:2022年10月~2028年3月


【用語説明】

注1)電子波動関数:

 量子論では電子は粒子ではなく波として振る舞う。その空間的に広がった存在は電子の空間座標の関数として表される。物質には複数の電子が存在する。電子波動関数は、その複数の電子の座標(位置)の関数として、電子集合の波動(存在情報)を表すものである。


注2)電子配置データ:

 分子中の電子がどのような状態にいるのかは、膨大な数の電子配置(電子配置データ)を用いて表現される。各電子配置は、全電子の空間、エネルギーやスピンの情報を表す最小単位である。


注3)量子もつれ:

 異なるビット情報(例えば、000、010や111)に出現係数を掛け算して足合わせたもの(重ね合わせ)を一つの波動関数・量子の状態として表す。特に、ビット情報同士に相互作用がある際、ビット情報の出現確率は他のビット情報の出現確率に依存する。この相互作用を伴う重ね合わせ状態はもつれていると呼ばれる。量子エンタングルメントとも呼ばれる。


注4)量子化学計算:

 量子力学の方程式(シュレーディンガー方程式)を数値的に解いて、分子や集合体の構造情報からそのエネルギー予測や電子構造を解析する計算化学的アプローチ。電子レベルで物質の相互作用を精密にシミュレーションすることで、反応機構や物性を高い信頼性と精密さで予測することができる。


注5)ニューラルネットワーク量子状態理論:

 人工ニューラルネットワークに基づく機械学習のアリゴリズムやソルバーを利用して、シュレーディンガー方程式を数値的に解き、スピン系や電子系の波動関数を決定するアプローチ。人工ニューラルネットワークは波動関数の量子もつれ構造の情報表現に用いられる。特に、2017年Science誌に発表されたCarleoとTroyerのニューラルネットワーク量子状態理論は注目を集めている。


注6)量子ゲート操作:

 量子ビットを用いて表される量子もつれは、ビット列を基底として、その重ね合わせ(線形結合)として捉えることができる。ビット列に対して固有なタイプの基底変換を様々に繰り返すことで、量子もつれが保有する情報を加工・処理することができる。量子ゲート操作・回路は、この基底変換に対応するものである。


注7)人工ニューラルネットワーク:

 入力データから結果データを予測する数理・関数モデルの一つである。人工ニューラルネットワークでは、入力データから始まり中間データの生成と変換が繰り返され、最終的な情報変換が達成される。その生成・変換プロセスを通じてデータ同士は関連し、ネットワークを形成する。機械学習、深層学習では、人工ニューラルネットワークは数値表現の中核を担う。


注8)高次ボルツマンマシン:

 人工ニューラルネットワークの一種。本研究で用いられる高次ボルツマンマシンは、隠れ層のないニューラルネットワーク構造に基づく。二部グラフ、三部グラフなど、高次結合のネットワークパラメータを用いることで、表現能力が高められる。本研究チームは2020年、高次ボルツマンマシンによるニューラルネットワーク量子状態理論を提唱してきた。


注9)分子軌道:

 電子1個の単純な波動関数を用いて、分子の電子波動関数に対する簡便な理解、解析を与えることができる。この一電子の波動関数は、分子の化学結合を理解する上で極めて便利である。この波動関数は分子軌道と呼ばれる。福井謙一は分子軌道を利用した量子論に基づく新しい化学反応の理論を確立したことでノーベル賞が授与された。