研究ハイライト

In-silico探索を使って近赤外蛍光分子を開発 ~コンピュータによる網羅的自動探索手法の開発に成功~

【研究概要】

・分子構造ジェネレータ注1)をもとにしたin-silicoスクリーニング注2)により、発光分子を探索する手法を開発した。

・多環芳香族炭化水素骨格にホウ素をドープ注3)し、チオフェンを縮環させるという分子設計をもとに、考えられるすべての構造(〜2500個)を生成させ、すべての構造に対して量子化学計算を行うことで、近赤外注4)領域で発光する分子の探索を行った。

・この探索をもとに選出した候補分子を実際に合成し、それが近赤外領域で強い発光を有することを示し、この手法の有用性を実証した。


【研究概要】

 名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(WPI-ITbM)・学際統合物質科学研究機構(IRCCS)の山口 茂弘 教授、柳井 毅 教授、藤本 和宏 特任准教授らの研究グループは、量子化学計算をもとにしたin-silicoスクリーニング手法を開発し、多環芳香族炭化水素(polycyclic aromatic hydrocarbon, 以下PAH)注5)骨格にホウ素をドープした近赤外発光分子の開発に成功しました。

 近赤外領域の光は、生体組織に対する透過性が高く、また生体に対する毒性が低いことから、ヘルスケアデバイスや生細胞の蛍光イメージングへの応用に適しています。しかし、近赤外領域で強く発光する新たな分子の開発は、長波長領域になるほど励起状態から無輻射失活過程注6)が速くなることから、本質的に難しい課題です。既存の分子骨格の修飾に終始するだけではなく、新たな分子骨格の探索が求められています。

 本研究では、分子構造を自動的に生成させる分子構造ジェネレータを新たにプログラミングし、量子化学計算をもとにスクリーニングする探索手法の開発を行いました。この手法を、グラフェンの部分構造を切り出したPAH骨格に、ホウ素を組み込み、ヘテロ芳香環のチオフェンを縮環させるというコンセプトをもとに実施しました。得られた候補分子の一つを実際に合成し、それが近赤外領域で高い蛍光量子収率で発光することを示し、この探索手法の有用性を実証しました。この成果は、新たな発光性分子骨格を探索し、有用な分子性機能材料を開発する基盤技術になるものと期待できます。

 本研究成果は、2024年4月22日付ドイツ化学会誌「Angewandte Chemie International Edition」オンライン版に掲載されました。


【研究の背景】

 近赤外領域の光は、生体組織への透過性が高く、生体に対する毒性も低いことから、ヘルスケアデバイスを指向した有機光エレクトロニクスや、生細胞の蛍光イメージングへの応用に適しています。しかし、一般的に長波長領域になるほど励起状態からの無輻射失活過程が速くなることから、近赤外領域で強く発光する新たな分子の開発は本質的に難しい課題です。そのため、近赤外領域に発光を示すことが既に知られている分子骨格の修飾に終始するだけではなく、まったく新たな分子骨格の探索が求められています。


 一方で近年、発光などの特性を有する機能性分子をコンピュータを用いて自動生成させ、膨大な化学空間の中から有用な分子を探索するin-silicoスクリーニングが注目を集めています。この方法は、煩雑な合成をせずとも分子の特性を予測できる点で魅力的なアプローチですが、提案される分子は合成することが現実的に困難であったり、またこれまでに知られている部分構造の足し合わせであったりすることが多く、真に素性の良い新骨格を得るにはさらなる工夫が必要です。


 研究グループは、近赤外領域での強い蛍光の獲得を目的に、グラフェンの部分構造ともみなせるPAHを基本骨格とする分子骨格の探索に取り組みました。長波長の吸収や蛍光特性を獲得する一つのアプローチとして、π共役を拡張することが挙げられますが、PAH骨格を拡張した分子は、一般に溶解性が低下し、また脂溶性が高くなることが、バイオ応用を考える上でしばしば問題となります。これに対し、周期表で炭素の周辺に位置するヘテロ原子をPAH骨格にドープすることで、π共役骨格を拡張せずとも大幅に分子の電子的特性を改変でき、長波長領域での吸収や発光特性を付与することができます(図1)。しかし、単にヘテロ原子を導入するだけでは、分子の蛍光波長を近赤外領域にまで到達させることは困難であり、適切なPAH骨格の最適な位置にヘテロ原子を組み込む手法の確立が必要でした。


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図1.(a) ヘテロ原子ドープによる機能性分子材料の開発における課題と、(b) その解決に向けたアプローチ。


 そこで、まず研究グループは、1)PAH骨格をある制約のもとで自動生成させる独自の分子構造ジェネレータを開発し、2)確固たる分子設計コンセプトに従って考え得る分子構造をすべて生成させ、それらの量子化学計算を行うことで、近赤外蛍光を示すと期待できる候補分子を抽出しました。そして、その中から、有望な候補分子を実際に合成し物性を評価することで、この探索手法の有用性の実証を行いました。


 このアプローチの特徴は、ゼロから分子構造を生成させるのではなく、ある設計コンセプトに基づいて生成できる化学空間を探索するという点です。これにより、有望な分子にたどり着く確度が上がるものと考えました。ここで着目したのは、電荷的に中性のPAHではなく、より特徴的な電子構造を有する酸化状態です。 5環式のPAHであるペリレンを例に見ると(図2a)、二電子酸化したペリレンジカチオンは、元のペリレンとは大きく異なる電子構造を有します。しかし、カチオンであるため、不安定でそのままマテリアルに用いるのは困難です。これに対し、ペリレンにホウ素原子を2つドープすることにより、ペリレンジカチオンと等電子構造注7)の分子を電荷的に中性の分子として創り出すことができます。この考えにより得られるジボラペリレンに、さらにヘテロ芳香環であるチオフェンを2つ縮環させることで、より特徴的な電子的性質を有する分子骨格を創出できると考えました。


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図2.(a) PAH骨格へのホウ素ドープ/チオフェン縮環に基づく分子設計のコンセプトと、(b)分子構造ジェネレータを用いた構造生成


 今回開発した分子構造ジェネレータは、芳香族ヘテロ環化合物を部分構造とし、それらを網羅的に縮環させることで、特定の骨格制約条件を満たす新規PAH骨格を網羅的に生成できるという特徴を有します。分子を構成する原子をノード、結合をエッジとしてみると、分子をグラフとして扱うことができます。本研究では、2つの分子グラフのノードとエッジを適切に組み替えることで、環状分子の高速な縮環操作を実現しました。この操作を逐次的に繰り返すことで、特定の部分構造を含むPAH骨格を網羅的に生成することが可能になりました(図2b)。


 次に研究グループは、この生成アルゴリズムをコンピュータプログラムに実装し、分子探索に用いました。ペリレンに2つのホウ素をドープし、2つのチオフェン環を縮環させるという設計コンセプトのもと、分子構造ジェネレータで考え得るすべての構造を生成させたところ、2477個の分子構造が得られました。それらのすべての分子に対し時間依存密度汎関数法(time dependent-density functional theory, TD-DFT)注8)計算を行いました。ここで重要になるのは、どのような指標をもとに候補分子を抽出するかという点です。近赤外領域での強い発光の獲得を目的にしているため、電子遷移の波長が長波長であることと、電子遷移の遷移双極子モーメントがより大きいことの2つを指標として選びました。加えて、実際に合成が可能な分子に効果的にたどり着くために、分子の安定性を考慮することが肝要であり、その指標として、一つの結合あたりの原子化エネルギーがより低いことを用いました。これらの3つの指標をもとに有望な候補分子を10個選び出し、その中で、合成の実現可能性も考慮して、最も魅力的な化合物1を標的化合物として設定しました。実際に化合物1の合成を、ホウ素の求電子的環化を鍵反応にした合成経路により達成したところ、予想された通り、トルエン溶媒中で724 nmに近赤外発光を示し、その蛍光量子収率も0.40とこの波長領域としては高い値を示しました(図3)。


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図3.In-silicoスクリーニングによる探索と、合成した標的化合物。


 PAHに2つのホウ素をドープし、2つのチオフェン環を縮環させるという設計コンセプトは、ペリレンにのみ適用が限られるわけではありません。図4の青色で示された結合部位をもつPAH骨格であれば、化合物1と同様の修飾を加えることができます。実際に、ピレンやアンタントレンといった骨格をもとにこの修飾を施した一連の化合物を合成し、それらがいずれも元のPAHよりも長波長領域に吸収、蛍光特性をもつことを実験的に示しました。


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図4.ホウ素ドープ/チオフェン縮環させた一連のPAH誘導体。


【成果の意義】

 本成果の意義は、分子構造ジェネレータの開発をもとに、新たな機能性π共役骨格のin-silicoスクリーニング手法を確立したことに加え、それを「ホウ素ドープ/チオフェン縮環」という設計コンセプトにより規定される化学空間に適用することで、有望な分子の探索を達成できることを示した点にあります。そして、提案に終わるのではなく、実際に化合物を合成し、このアプローチの有用性を実証した点も重要です。

 近年、ナノグラフェンなどの分子カーボン材料が脚光を浴びており、多くの研究者が参入し、開発競争が激化しつつあります。その分野において、分子カーボン材料にヘテロ原子を導入するのは当然の魅力的な展開といえます。これまでにヘテロ原子をドープした多様なPAHが合成されてきていますが、その大半は、合成できる位置に導入したものです。その中で本成果は、適切な骨格の最適な位置にヘテロ原子を導入する手法を提供するものであり、今回対象とした近赤外発光性分子に限らず、PAH骨格を基盤とした幅広い機能性分子材料の有用な探索技術として今後の有機光エレクトロニクスや蛍光イメージング分野の進歩に寄与するものと期待されます。


【付記】

本研究は、以下の事業・共同利用研究施設による支援を受けて行われました。

科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業CREST(JPMJCR21O5)、日本学術振興会 科学研究費補助金 (23H00295、22K21346)


【用語説明】

注1)分子構造ジェネレータ:

部分構造を組み合わせて分子の全体的な構造を生成するツール。In-silicoスクリーニングの候補分子生成などに用いられる。


注2)In-silicoスクリーニング:

コンピュータシミュレーションを使用して化合物の特性を予測し、材料や医薬品の開発に役立てる手法。実験を行わずに大量の化合物を評価し、有望な候補を選別することが可能である。


注3)ドープ:

物性を変化させるために少量の添加物を加えること。


注4)近赤外:

650~1400 nmの光の波長域。


注5)多環芳香族炭化水素(polycyclic aromatic hydrocarbon):

ベンゼンなどの芳香環が結合を共有しながら連結(縮環という)してできあがる分子。ナフタレンやアントラセンのような分子や、グラフェンの部分構造であるナノグラフェンなども含まれる。


注6)無輻射失活過程:

分子が励起状態にあるとき、そのエネルギーが発光ではなく、熱エネルギーや振動エネルギーなどに変換される過程。


注7)等電子構造:

同じ数の電子をもち、同じ電子配置を有する分子のことを指す。


注8)時間依存密度汎関数法(time dependent-density functional theory, TD-DFT):

電子系の電子励起エネルギーやその状態を量子力学の方程式から決定する物理学的手法。量子化学計算法と組み合わせられ,分子の構造情報のみから励起状態を精度良く簡便にシミュレーションできる。