研究ハイライト

小さいナノカーボンで正孔を輸送できる 〜炭素と水素のみで従来の主力材料に匹敵する正孔輸送能を実現〜

【概要】

 理化学研究所(理研)開拓研究本部 伊丹分子創造研究室の伊丹 健一郎 主任研究員(名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(WPI-ITbM)主任研究者)と東ソー株式会社 有機材料研究所の森中 裕太 主任研究員(研究当時、現同社 研究本部先端融合研究センター 先端材料研究所 主任研究員)らの共同研究グループは、ヘテロ原子[1]や置換基を一切用いずに、有機EL[2]の正孔輸送材料[3]として機能する炭化水素系正孔輸送材料を発見しました。 本研究成果は、「分子ナノカーボン科学[4]」から創出された炭化水素系材料が有機電子デバイス[5]の分野において応用できることを明らかにしました。これは、ほとんど検証例がなかった有機電子デバイスと分子ナノカーボン科学の融合研究において重要な知見であるといえます。

 今回、共同研究グループは、ナノカーボン類の一つである非平面の炭化水素系材料(HBT)を正孔輸送材料に用いた有機ELデバイスが、代表的なトリアリールアミン[6]類に匹敵する性能を示すことを発見しました。その性能の根拠となるHBTの特徴を、量子化学計算や、固体膜の分析により解明しました。

 本研究は、科学雑誌『Angewandte Chemie International Edition』のオンライン版(8月13日付)に掲載されました。


【背景】

 有機太陽電池や有機ELなどの有機電子デバイスにおいて、デバイスを構成する層の一つである正孔輸送層[3]は実用的な性能を得るために不可欠です。しかし、正孔輸送層を構成する正孔輸送材料は、窒素原子を有するトリアリールアミン化合物群の独壇場でした。これまでにもトリアリールアミンに依存しない正孔輸送材料の開発は報告されていますが、純粋に炭素原子と水素原子だけで構成される炭化水素系の材料でトリアリールアミンに匹敵する性能を示すものはありませんでした。

 共同研究グループは、これまでに多彩な形状の炭化水素系材料の有機合成に成功しており、今回は非平面の炭化水素系材料の一種である「HBT」という分子に着目し、分子の特徴の解析と有機ELへの応用可能性の検証に挑みました。


【研究手法と成果】

 共同研究グループは、単結晶X線構造解析と量子化学計算を組み合わせて、HBTの特徴を解析しました(図1)。HBTは結晶構造中で個々の分子が規則正しく互い違いに積層して1次元状にカラム(縦)構造を形成しています。この結晶構造に対して量子化学計算でトランスファー積分[7]を解析したところ、個々のHBT分子は、カラム方向のみならず隣接カラムの周辺分子にも相互作用していることが分かりました。HBTの強い分子間相互作用は、HBTを蒸着して作成した固体膜中においても発現していることが確認されました。また、HBTの高度にねじれた構造によって、固体膜のアモルファス[8]安定性が向上することが判明しました。


itami_fig1.png

図1 HBTの各種解析結果

(A)HBTの単結晶X線構造解析から、1次元状のカラム構造の形成を確認した。

(B)単結晶X線構造に対する量子化学計算より、HBT分子のトランスファー積分を数値で表示した。この数値で示した矢印部分において、HBT分子間相互作用が存在する。数値が大きいほど相互作用が大きい。

(C)真空蒸着によって石英基板上に形成した固体膜を大気下で加熱した。HBTの部分構造である比較用化合物DBCは加熱によって容易に結晶化したが、HBTは高度にねじれた構造によって、アモルファス膜を維持した。


 次に、HBT固体膜を大気中光電子収量分光分析法[9]によって分析した結果、HBT固体膜がトリアリールアミン類の固体膜と同等のHOMO準位[10]を有することが分かりました。量子化学計算の結果、HBTの有機合成において鍵となるAPEX(annulative π-extension:縮環π拡張)[11]を駆使したアプローチが、正孔輸送材料に求められるHOMO準位の実現において極めて有効であることが確認されました(図2)。さらに、HBT固体膜の移動度をtime-of-flight法[12]によって測定したところ、トリアリールアミン類に匹敵する正孔移動度が観測された一方、電子移動度については検出できませんでした。これらの結果は、HBTを有機電子デバイスの正孔輸送材料として用いる妥当性を支持するものです。


itami_fig2.png

図2 多環芳香族炭化水素のHOMO準位における線形/環化とAPEXアプローチの比較

各モデル化合物のHOMO準位を量子化学計算によって算出し、線形または環化によるアプローチよりもAPEXを駆使したアプローチの方がHOMO準位を大きく上昇させることができる。


 最後に、有機ELデバイス向けの正孔輸送材料にHBTを応用し、検証を行いました(図3)。その結果、HBTから成る正孔輸送層を有するデバイスは、代表的なトリアリールアミン材料(α-NPD、TCTA)を用いたデバイスを上回る性能を示しました。これは、ヘテロ原子や置換基を一切持たない炭素と水素のみから成る材料で、トリアリールアミン類に匹敵する性能を示した初めての報告例です。


itami_fig3.png

図3 HBTを用いた有機ELデバイスの素子評価結果

(A)本研究で作製した有機ELデバイスの素子構成、バンド図および使用材料。材料名の下の数値は膜厚を表し、バンドの上部/下部の数値はそれぞれ実験的に測定されたLUMO(最低空軌道)準位/HOMO準位を示す。

(B)発光スペクトル。発光の色純度はいずれも同様である。

(C)電圧-電流密度曲線。電圧を印加した際に低い電圧で大きな電流を流すデバイスは、駆動電圧が低くなるため好ましい。

(D)輝度-外部量子効率曲線。高い外部量子効率が好ましい。

(E)時間-輝度減衰曲線。連続でデバイスを発光させる加速試験によって素子の劣化時間を観測し、素子の寿命を見積もった。長時間輝度を維持できるデバイスが好ましい。


【今後の期待】

 本研究から、従来のトリアリールアミン類とは全く異なる、分子ナノカーボン科学から創出されたナノカーボン材料が、有機電子デバイスの分野において応用できることが明らかになりました。また、炭素原子と水素原子だけで構成されるナノカーボン材料が、ヘテロ原子や置換基を駆使した材料と同等の性能を示すことも発見しました

 これまで有機電子デバイスの飛躍的進化にヘテロ原子や置換基を駆使した先駆的な材料が貢献してきたように、これからは分子ナノカーボン科学から創出されたナノカーボン材料が有機電子デバイスのさらなる進化に貢献していくと期待できます。

 さらに、これまで合成されたナノカーボン類は、依然として有機電子デバイスへの応用が検討されていないものが数多く存在しています。共同研究グループは、これらナノカーボン類の有機電⼦デバイスへの応用可能性を検証することにより、今後も分子ナノカーボン科学と有機電子デバイスの融合研究を推進していきます。

   

【用語説明】

[1] ヘテロ原子

炭素原子と水素原子以外の原子を指す。有機電子デバイス向けの有機材料においては、窒素原子、酸素原子、硫黄原子などを有する骨格や置換基が広く用いられている。特に、窒素原子は、結合様式によって化合物のエネルギー準位を大きく変化させる鍵原子として多用される。


[2] 有機EL

有機ELは、有機層を挟むそれぞれの電極から正孔と電子を注入し、有機層の中心で再結合させることで有機物を発光させ光を取り出している。実用的な性能を得るため、駆動メカニズムであるキャリアの「注入」、「輸送」、「再結合」、そして有機物の「発光」の各工程に特化した材料を採用し、機能分離化が図られている。現在市販されている有機ELパネルに採用されている有機層のほとんどは多層構造である。


[3] 正孔輸送材料、正孔輸送層

分子が電子を失うことによって生じる欠損部分を正孔(ホール)と呼ぶ。有機電子デバイスの分野において、正孔は電子とは反対の方向に流れるキャリア(担体)として扱う。正孔輸送層は有機ELデバイスの発光に必要な正孔を輸送する目的で使用される有機層の一つで、その層に適した材料群を正孔輸送材料と呼ぶ。


[4] 分子ナノカーボン科学

これまでさまざまな構造から成る「混合物」としてしか合成できなかったナノカーボン物質を、構造的に純粋な「分子」として合成し、構造と物性の関係を明らかにするとともに、いろいろな分野に応用する科学のことをいう。伊丹主任研究員らは、有機化学や合成化学を基盤とした「分子ナノカーボン科学」という新たな研究領域を開拓している。


[5] 有機電子デバイス

電極と電極の間が有機化合物から成る層で構成されるデバイス群を広く指す言葉である。代表的なものとしては、有機EL、色素増感太陽電池、ペロブスカイト太陽電池、有機電界効果トランジスタなどが挙げられる。本研究の焦点である正孔輸送層は、有機ELやペロブスカイト太陽電池の研究分野において利用されることが多い。


[6] トリアリールアミン

中心となる窒素原子に結合する三つの置換子が全て芳香族炭化水素基(アリール基)である化合物群。非常に強いドナー性、優れた正孔移動度、耐熱性、アモルファス性などの特徴から、正孔輸送材料の核となる代表的な分子構造として数十年以上用いられている。


[7] トランスファー積分

分子間における分子軌道の間の重なり具合を表す量。占有軌道準位の間(HOMO準位間など)でのトランスファー積分の絶対値が大きくなるほど正孔移動がしやすくなる。


[8] アモルファス

非晶質とも呼ばれ、結晶化が起きていない状態であり、結晶ほどの秩序性はないとされる。有機ELデバイスにおいては、結晶膜で高性能を実現することは困難なため、アモルファス膜を形成可能な材料が一般に用いられる。


[9] 大気中光電子収量分光分析法

理研に所属していた宇田応之博士が発明した、薄膜の仕事関数やイオン化ポテンシャルを測定する手法。本研究では、有機化学者になじみやすい用語を指向して、イオン化ポテンシャルをHOMO準位として扱っている。


[10] HOMO準位

電子が占有する分子軌道において最もエネルギーが高い準位。有機ELデバイスにおいて正孔が最も流れやすい準位として認知され、HOMO準位が高い(浅い)分子は低い(深い)分子よりも正孔輸送に優れる傾向がある。


[11] APEX(annulative π-extension:縮環π拡張)

単純な化合物を出発原料にし、一段階で縮環させながらπ拡張できる反応の総称で、ナノグラフェンなどの拡張π共役分子の効率的な合成に威力を発揮する。伊丹主任研究員らが2015年に提案・開発した新しい合成方法論。


[12] time-of-flight法

電界をかけた有機膜に光源から光を照射した際に生じるキャリアの走行時間を検出することで、移動度を測定する手法。アモルファス膜のバルク移動度の観測に適用できる。